思索録

頭からこぼれ落ちてなくなってしまう前に。

行動は自己責任でお願いいたします(※当方は責任を負いかねます)

 

 

妙なタイトルをつけてみたかった。

 


さて。わたし、「誰かのため」みたいな言い方をする人はおしなべて信用できない。
そういうこと言いだす人にはすぐに心を閉ざしてしまいます。

 

この前ね、好きな小説のシリーズ読んでたら、大好きだった主人公が突然、言いやがったんですよ。

 


「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」って。

 


うっわ、その言葉、わたし苦手中の苦手~。

ということでそのシリーズはそれ以降読まなくなりました。ちゃんちゃん。

 

 

 


さあ、なぜここまで「誰かのため」を毛嫌いしてるのか。

それは、人間の行動って全部「自分のため」だと思っているからです。

 


えっ、じゃあ他人に優しくすることとか、それこそボランティアとか、プレゼントとかって何なの?

って感じかとは思うけれど、

 

 

たとえば、

困ってるのを見捨てる自分が許せないから人を助けるし、

大事な人には泣くよりも笑っていてほしいから親切にするし、

誰かにプレゼントを贈るのとかは、相手の喜ぶ顔が贈ったもの以上のプレゼントになるから。

 


…だからね、他人に利益をもたらす行為を、自分のためと思える人を「優しい」と呼ぶんだと思うの。

愛とかそういうさ、大勢の人が好む概念もたぶん、ホントは綺麗なものではない。エゴとエゴのぶつかり合いと結びつき。

 

 

「誰かのため」「あなたのため」は責任転嫁でしかない。

 

それだけならまだ救いようはあるけど、自分が勝手にやったことの責任をそういう聞こえのいい言葉で擦り付けて勝手に病んだり怒ったりってそれはさ、違うじゃない。

 

 

わたしと君とあなたとお前は別の人間だから、どんなに近くとも完全に分かり合えることはないし、それが当たり前です。それでいい。

 

 

他人が何に対して喜ぶのかとか、何を望んでいるのかとか、ホントのところは分からない。

それでもわたしたちは、大事な人の笑顔を見たくて、自分を許したくて、分からないなりに不器用に頑張っちゃったりするんですよね。

 


そんなエゴに満ちた中で、誰かの「自分のため」が「わたし」にとって救いになったり、喜びをもたらしてくれたとしたら。

 

それは「あなたのため」と言われて為された行為より嬉しい、じゃない?

 

 

さらば。

 

いさ

生命の危機〜スペイン田舎編〜

人生には生命の危機が度々訪れる。

わたしも例に漏れず生命の危機にさらされながらここまで無事に生きているわけだけれど、こういう話って思い返すととても面白い。


ということで、死ぬかもしれなかったときの思い出をお話しますね。第一弾です。




あれは去年の2月、スペインのサラマンカに短期留学したとき。

ひとりでどこかの街を観光しようと思いたち、早朝、何も食べずに駅に走って電車に乗った。


高速鉄道で1時間半、セゴビアという街に着いた。

駅から中心地が遠いのでバスに乗ると、前に日本人のツアー客がいたので、後ろに何気ない顔でついていって話を聞いた。

ローマ時代の水道橋や白雪姫の城のモデルを見て、あぁ満足した。さて帰ろう。

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そのとき、わたしは思った。




バスじゃなくて歩いて駅まで行こう〜っと。バスでは15分くらいだったし余裕余裕!




…それが全ての始まりだった。

それを決意したのは昼頃だったけれど、水以外朝から何も摂取していない。
観光地だからどのお店も混んでいて面倒で。



さて、Google Mapで駅の名前を検索し、一番上に出てきた場所へ歩いていくことにした。

静かな公園や、スーパーマーケットのある通りを通り過ぎ、歩き、歩き、歩き、


なんか工業地帯に入り、人間という存在を1時間以上見ていないし、ていうか1時間以上歩いてるのっておかしい気がしてきて、



まあマップ合ってるし大丈夫よね。



などと考えつつGoogle Mapのピンの場所に着いた。





……とても大きな工場だった。日曜なので人は全くいない。


異国の地の辺鄙な工業地帯に存在する唯一の生命体であることに深く絶望しつつ、ウソだと思って見てみると、Google Mapが示していたのは駅と同じ名前の工場だった。


…では駅はどこだろう。同じ名前だから絶対近いでしょ!
ポジティブなので調べ直した。


7km離れていた。


しかもこの地帯、バスも何もない。タクシーも通っていない。

エネルギー不足だったわたしはちょっとおかしくなっていたのか、

「まあ歩ける!」

と思い込み方向転換を始めた。




…数時間後、ゲッソリとしたわたしの隣を、牛の群れがゆったりと歩いていた。


工場から駅に向かう道の途中からは、歩道という概念が存在していなかった。

獣道をかき分けて進み、脚が草で傷だらけになり、挙げ句の果てには牛の放牧地に迷い込んだ。

水が尽きたけれど、買えるような場所が全くない。


わたしはこのまま野垂れ死にするのかもしれない。

いざとなったらお隣の牛さんには犠牲になってもらおう。牛って生で食べたら死ぬっけ?


と思いつつ、ひたすら歩いた。
(※この時点で何も食べずに16時のため、思考能力が大幅に低下しています)



今考えると、誰にも会ってなかったら本気でおかしくなってたから牛さんファミリーが隣を歩いてくれてよかった。牛さんありがとう。


近くの牛に、
「やっぱりさ〜、寮の棚からパンくらいは拝借しておいた方がよかったよね〜」などと愚痴をこぼしながら30分。






駅。


地平線が見えるようなだだっ広い放牧地を歩いていたら、唐突に駅があった。




駅、放牧地と接してるのかよ。



という驚きは置いておいて、そのときは本当に泣きそうになった。

工業地帯って治安悪いイメージじゃないですか、運が悪かったら事件に巻き込まれてたよな。とか、赤い服着てたら牛に追突されてたかもな、など色々考えると恐ろしいよね。

ほぼ無傷で生きて帰れてよかった。

脚を傷つけた草は許さない。しばらくシャンプーがしみたんだよ。


高速鉄道が来るまで1時間あったので、駅ナカの小さいカフェに入った。

もう頭が働いていないので、適当にメニューを指さして頼んだら、地味なイチゴジャムのトーストとカフェオレが出てきた。

絶対自分の家で超熟食パンとか焼いたほうが美味しい、そのはずなのに、世界一美味しく感じた。

ぶっちゃけ涙が出てきた。


マックブックエアァという機械を軽やかに使いこなすお姉さんに変な目で見られつつ、トーストを1口50回くらい噛んで食べた。




ある意味貴重な経験をしたのだけれど、二度とごめんです。


この事件を機に、海外旅行の際はカロリーメイトの類と充分な水分、ポータブル充電器を持つようになった。


あと、できるだけ交通機関はケチらず使うようにしている。


今回わたしを苦しめたのはGoogle Mapでしたが、彼?がいなければ永遠にセゴビアを彷徨う幽霊として有名になっていたので、結果的には感謝しています。

ただ放牧地はルートに入れないでほしい。開発部の方、どうぞお願いします。

あと、みなさん検索には気をつけてね。



他に経験した生命の危機についてもそのうち書きたいと思ってます。



あなや。

駅を見つけて勝利の面持ちで撮った。
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いさ

熱帯夜

どの季節にも、素敵な時間帯ってあるよね。

春の昼下がり、秋の夕暮れ、冬の早朝、みたいな。


季節でいうと一番好きなのは秋かな。赤や黄色の葉っぱと金色の木漏れ日と…。

原色に薄い薄いセピアのフィルターをかけたみたいな色が好きなんだけれど、秋は世界が全部そういう色で覆われるから。




さて。最近猛暑つづきだし、もうすぐ夏本番がやってくるけれど、夏は夜が最高だと思う。

夏の湿度には嫌気がさすけど、夕方や夜はそれが心地よくなる、そんな気がします。



夏の夜が好きな理由は、涼しいけれど湿った夜風。

においも、感触も、湿気でぼやける遠くの景色も、非日常で現実離れしている気がして。

ビーチサンダルでコンビニに行ってアイスを買いたくなるし、お風呂上がりに窓辺で懐かしい人に連絡してみたくなる。

魔法みたい。



そして、お祭りの日の夏の夜風は格別だ。

ソースの安っぽい香りが、窓を開け放した家の中にまで充満する。

遠くから太鼓の音と、小さい子の笑い声が聞こえてくる。

暗くなっても静まることのない、一日だけの不思議な夜。
ゆったりした時間なのに、ワクワクする。


そうそう。わたしの言う「お祭り」は地元にあるような小さなもののこと。
屋台が5個くらいしかないような。


人混みが苦手だから、大きい花火大会とかのお祭りは、実はあんまり好きじゃない。

人に遮られて風も通らないし、疲れちゃう。


わたしにとってのお祭りは、太鼓のやぐらとレモン味のかき氷、焼きそばを慣れない手付きで作る父、そしてヨーヨー釣り。それだけ。




そうだ。一人暮らしだったら夏の夜はどんなに楽しいだろう、って最近ずっと妄想してるんだ。

近くの友達の家に行きたい。
適当な格好で、ビニール袋に入った缶のお酒を持っていって。一緒にDVDとか観て夜ふかしするの。

途中でコンビニに食べ物や飲み物を買い足しに行って、気づいたら寝てて。

11時くらいにヤバヤバ言いながら起きて、ご飯を食べて、自分の家に戻る。


素敵だなあ。やってみたい。


実家暮らしでもお友達の家には泊まれるけど、近くに自分の家があって何でもすぐに取りに戻れる、みたいなのがいいんだ〜。

大人に怒られたりしないし。



今一人暮らしをしてて、近所にお友達が住んでるっていう幸運な人たちは、夏の夜を本気でエンジョイしてほしい、わたしの分まで。



ではでは。



いさ

自己犠牲は優しさには決してなれない

自己犠牲。一見とても綺麗な言葉です。人のために己を捨てる。
でも、実は楽になるのは自分だけかもね。
そんなお話です。




わたし、相手のために自分を犠牲にするのは間違いだなぁって、最近…というかここ1年で実感したんだ。
わたしも、大事な人たちのためならいくら損してもいいなぁって思うことあるけどね。でも駄目なのです。


自己犠牲の問題点は、相手の知らないところで勝手に行われてしまう、ってところ。

勝手に自己犠牲による愛情表現をされた相手は、どうにかお返しをしなきゃって考えてしまう。
だって自分のために誰かが不利益を被ってしまったから、不幸になってしまったから。

どうして、頼んでもいないのに。

そうして、あぁどうやって報いたらいいのだろう、なんて申し訳ないのだろうって思い悩む。


それって、大事な人に負担がのしかかってしまうことになるんじゃないかなって。
…悲しいことです。



たぶん、自己犠牲をしたくなるくらいあなたにとって大切な相手は、あなたが苦しむことを喜ばない。あなたの幸せを自分が奪ってしまったことに絶望するでしょう。しかもそれが自分の力の及ばないところで勝手に為されてしまったら、ホントにどうしたらいいか分からなくなっちゃうと思う。
自己犠牲は自己満足でしかない。



だからね。自分の幸せを追求していくことこそが、大事に思ってくれる人たちのためにも、大事にする人たちのためにも、一番いいことだと思って過ごしています。
わたしの大事な人たちにも、そうであってほしいな。




独り言を聞いてくれてありがとう。
またね。


いさ

オレオとわたしの複雑な関係

オレオってあんまり美味しくないよね。
そう言いながら母が帰宅してきた、オレオを持って。美味しくないけど久しぶりに食べたかったんだって。

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オレオの「オ」をココアビスケット、「レ」をバニラクリームだと定義すると、わたしは「オ」だけ食べたいひと。
だって「レ」って身体に悪そうじゃない?トランス脂肪酸の塊じゃんよ、絶対。
甘っ!てなるし。
まあ「オ」だけみても別に格別美味しいとは思わないのだけれど。



それでもわたしの記憶の一番最初にでてくるお菓子はオレオの青い箱。
3歳のときに初めて遠足をした、そのときに母が持たせてくれたのがオレオだった。

不器用だから袋がうまく開けられなくて、「オ」がボロボロに砕けてしまった。わたしの周囲のバスの床に「オ」が散らばって、先生に怒られた。

でも、なんかお母さんのいないところでお菓子を食べるっていうのが、当時のわたしにとってはすごくドキドキワクワクするものだった。
わたしは砕けたのもお構いなく、友達にも一切渡さずにオレオの一箱を一人で食べきった。そんなに美味しくないなぁと思いながら、たったの3歳なのに。
一箱って9枚×2パックだよ。よく食べられたなあ。



まあ、そういうわけで、オレオを見ると謎のノスタルジーが起こるんです。たぶん大人になっても変わらない。



最近オレオを食べたのは、今年3月の合宿。
最終夜の宴会でのゲームで最下位だったわたしたちのチームは、罰ゲームと称してオレオを渡された。「一口で食べてね!」って。

きっと何かが仕込まれてるんだろうな。
思い切って口に入れると、「オ」がサクッとして、「レ」のもったりした食感が広がり…。

???

何が仕込まれてるかわからないぞ。片栗粉でも入れたの?
……そんなわかりづらいことしないか。

と思ってたら、隣でチームの人たちが悶え苦しんでいる。「ワサビだぁ〜〜〜…」って呻いてるけど、え、全然わからないぞ。疑問で埋め尽くされるわたし。

そしたら、「一人分だけ何も仕込まれてないラッキーオレオがあったんだよ〜」って説明された。何分の一かの確率でわたしがラッキーオレオに選ばれたらしい。オレオとはやはり微妙な縁がある。



さて。
母が今しがた買ってきたオレオだけど、わたしは食べないつもりなんだ。
なぜって、罰ゲームで久々に食べたオレオは、やっぱり記憶の通り何も変わることなく、素敵でたまらない、微妙に微妙な味だったから。


…まあでも、3年に1回くらいは食べてもいいかな。
ノスタルジーを感じるのは、それくらいで十分。



ブログってこんな感じでいいのかな?


いさ